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■殉教者

FM東京を振り出しに、様々な展開を経て、やがてJ-WAVEをたちあげ、
その商業性に飽き足らず、最終的に衛星音楽局セント・ギガを産み出した横井宏さんは、
私に取って第2の生みの親である。

30年近く前、FM東京の仕事をしていた頃から、やり手との評判を耳にしていたが、縁がなく、久しく面識がなかった。
私はその後、テレビの世界を経て、映像と音楽の新しい形での融合を試みていたが、時期尚早で限界を感じ、煮つまっていた。

そんなある日、かつて所属していた制作会社から、横井さんから声がかかっているという知らせをうけて、さっそくできあがったばかりのJ−WAVEのスタジオへ、デモ・テープを持っていった。30分の、クラシックを入れたノン・ジャンル・ミックスものをということで、その実験性に驚いたが、逆にすごく刺激をうけて、商業性は気にせずに、没頭して作ったものだ。

それまで自分の音楽性に心底共感してくれるプロデューサーにあった事は一度もなかったので、一抹の不安はあったが、じっと横井さんの反応を見守っていた。彼は、最後まで集中してじっくり聞き込んだ後、一言「いいですね。」と言った。まるで武道の師範の前で型を披露し入門を許された時のような感じだった。そのあと、色々話をしたが、言葉使いが丁重で温和な、だが武士を思わせるような間合いのとり方があった。

それは武士といっても居合いの達人で、剣先がふれたとたんに、相手の力量・本質を見抜いているような感じで、その先見性とあいまって、ああ日本にもこんな人がいるんだというのが第一印象だった。信頼できる人だった。

それ以来この番組作りに本当に夢中になって、クラシックをはじめ民族音楽やあらゆる音楽を買い集めて聞きまくった。
音楽を紡いでいくうちに見えてくる世界は、正に錬金術の世界だった。
あっという間に毎日が過ぎ去っていった。

そんなある日、横井さんによばれて、J-WAVEの隣にあるレストランに行った。詳しい説明もなく、端的にJ-WAVEをやめると言った。
「横井さん、それはないでしょう。禁断の木の実を食べさせといてそれを突然とりあげるなんて、残酷すぎますよ。一体この落し前はどうつけてれるんですか?」まるでヤクザのセリフに、横井さんは黙って聞くだけだった。

その後およそ一年間は、もんもんとした日々を送りつづけていた。
そこへ1本の電話がかかってきた。横井さんだった。予期せぬ人からの電話に驚いているヒマもなく、横井さんは紋切り型でこう切り出した。
「川崎君、命をかける気はありますか?」
それが何であるかどうでもよかった。
「当たり前でしょう、横井さん。その言葉をずっと待ってましたよ」
そして、セント・ギガがスタートした。

彼が提示した編成コンセプトは、破格に画期的だった。
衛星、つまり神の視点から、地球のタイド・ウェーブに合わせて音楽の潮流を紡ぎ出し、自然音で各作品をつないでゆくという、従来の放送局では、絶対にありえないコンセプトだった。
好意的にギガをとりあげてくれたマスコミでさえ、最後は、しかし、日本には前衛は育たないのではないか、と危惧の念でしめくくるほど、その編成は斬新だった。究極の音楽ステーションだった。

本放送開始の日、最初の音出しが私にまかされた。
スタッフが見守るなかで、ふるえる手で最初の曲をスタートさせた。
エンジニアが何回も何回も調整を続けてきたモニターが鳴り出す。すると、本当に宇宙から音楽が降りそそいできた。思わず声がもれそうになり、鳥肌がたった。オーッという歓声と共に拍手が巻き起こった。編成の女性が泣いている。一体こんなことがあっていいのだろうかと思えるほど心が震えた。

日増しに増えてゆくDJ達は、みんな横井さんが信頼する人達だった。
信頼こそがDJをつないだ。
自由と愛に満ちあふれた生放送は、ロビーは、パラダイスだった。
お互いがお互いの音楽に敬意をはらい、みんな純粋に音楽に対して好奇心に満ちていた。これが横井さんのスピリットだった。
後に、フランスで開かれた音楽局界の会議で、セント・ギガを聞いたメンバーの1人がいみじくもこう語っていた。
「我々は、放送局というものを音楽を紹介するメディアだと思っていた。しかし、セント・ギガは、放送局自体が作品になっている」と。

後日、聞いた話だが、スタジオ上階にいた社員達が、本放送開始と同時に、酒宴をはじめ大騒ぎをしたらしい。
翌日、その社員達を前にして、横井さんは激しくそれを叱責した。
「今は、まだ大騒ぎをして喜ぶ時ではない」と。
こんな激しい一面を見せた横井さんは、これが最初で最後だった。

1年後から契約者数は伸び悩み、様々な打開策が練られるものの、日本初の有料放送と、アンテナ・チューナーのハードの壁は厚く、認知度の低さがそれに輪をかけた。
様々な内的・外的障壁に苦しみながらも、そういったことは一切我々には知らせず、横井さんは1人苦悩を背負い、我々のいるスタジオのあるロビーに降りてきては、「ここにいる時が一番ホッとする」と微笑んだ。
後に奥さんから聞いたのだが、毎日、家に帰ってくると、玄関で倒れこむようにくずれ落ちたという。

病名は、末期ガン。告げる横井さんの声は震えていた。
凍りつくような会議室で、我々はただ手を固く握りしめて息をのむしかなかった。

後日、長文の手書きの封書が届いた。
そこで横井さんはこう書いてあった。
命の尊厳というものをあらためて考えさせられ西洋医学から離れ、静岡の海のそばに居を移し、そこで療養することにしたこと。
編成方針に明示したとうり、セント・ギガの力を身をもって実証するために、放送を聞き続けることによって病を克服するということ。
見舞いは無用、放送を通してみんなの気持は、十分すぎるほどよく分かっているから、と。
リンとした文章は、見事なまでに達筆でやはり武士だった。

以降、編成は大幅に手を加えられ、断腸の思いをしたDJ達は次々に切り捨てられ、やがて「音の潮流〜サウンドストリーム〜」は新作はなくなり、すべて、それまでの作品の再放送となっていった。

そして奥さんから横井さんの死を告げる手紙が届いた。
激痛に耐える中、ある日から、周囲のものが、生命が光り輝く様に見入っていたという。

そして、その後を追うように、横井さんの片腕だった桶谷君も、同じくガンでこの世を去った。

「I’m Here. 私はここにいます」
「I’m glad you’re here あなたがそこにいてよかった」
2人の夢が生み出した聖霊ハーモニウムは、この2つのメッセージだけで交信し合う。
彼らは音を食べる生き物だ。しかも美しい音だけを。
その美しい音を食べ続ける限り、彼らは老いることがない。
不死の体は、光を受けるとアクアマリンに染まり、目もあやな輝きを放つのだ。そして深遠な光の中、体を震動させながら、流麗な絵模様を作って互いに並び合うという。

昨年自らの会社をたちあげた時、その名称をハーモニウムとした。
2人の音楽の霊が、私の心の中でアクアマリンに光り輝くようにと。



ギガ開局の音出しの瞬間。


(C) Yutaka Kawasaki 2001


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川崎寛ファンサイト

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